黒木工吉のフィギュアスケート解説ブログ

フリーライター黒木工吉のフィギュアスケートに関するブログです。最新の技術解説、選手の情報からフィギュアスケートというスポーツ全体まで様々な角度から論じてみます。

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演技構成点は芸術点か?③







ショートプログラム
PCS バンクーバー 女子 SP

フリースケ-ティング
PCSバンクーバー 女子 FS 

【前回のつづき】

ピアニストや歌手は、曲を自分のなかで噛み砕いて、作曲家や作詞家の魂を自分のなかで消化してそれを演じる力が必要です。わたしはフィギュアスケーターもそれに近しい存在だと考えます。俗に言うシンガーソングライターではなく、歌手であるということです。

なぜなら、歌詞や曲というのはあくまでな概念であり、それを形にできる人がいなければ、そこに存在する証明ができないものです。もともと曲というのは記号であり、出版物です。紙に起こされた楽譜を出版することが作曲家の仕事のひとつであり、その時点では曲というのは紙です。故に楽曲というのは出版物です。

それを楽器や声で表現したときに、初めて我々の耳にもそれが認識されることになります
わたしはフィギュアスケートというのは、あくまで音楽を表現する競技だと考えています。

ここがわたしが一番言いたいことなのですが、フィギュアスケートは直接的に別の役柄を演じるわけではないと、わたしは考えています。音楽を通して、役柄を演じることはあるでしょうが。

例えば今回のキム・ヨナ選手の「007」では、キム・ヨナ選手はボンドガールを演じる、と言っていました。
しかしそれは音楽あってのものであり、音楽が「007」を、ひいては「ボンドガール」を表現しているから成り立つものです。故に、「スケーター→ボンドガール」ではなく、「スケーター→『007の音楽』→ボンドガール」だと考えます。「スケーター→トゥーランドット姫」ではなく「スケーター→『誰も寝てはならぬ』→トゥーランドット姫」ということです。

なぜこのことをこんなに厳密に主張しているかというと、それを自覚していることと自覚していないことでは大きな差が出るからです。

例えば高橋大輔選手はロミオとジュリエットの音楽で滑るときに、「自分はロミオを演じるのではなく、ロミオとジュリエットというの音楽を表現するのだ」という趣旨のことを言っていました。わたしはそのときに、そのことに気がつかされたのです。やはり彼は偉大な芸術家です。

もちろん、『ロミオとジュリエット』という音楽を使用してロミオ、ないしはジュリエットを演じることも、ひとつの表現です。しかしあくまで音楽を介してそれを演じていることを自覚しないと、わたしはそれは表現としては未熟なものであるとおもいます。

なぜなら、ひとつの役柄に固執してしまうと可能性が限りなく狭まるからです。もちろん、プログラムを通してひとつの役柄を演じるからと言って、表現の幅が狭まると言っているのではありません。ただ、音楽を表現することに色々な選択肢があることを認識するべきだということです。中野友加里選手は『火の鳥』を使用したプログラムで、前半は火の鳥を演じ、中盤以降はお姫様を演じている、とコメントしました。こういうことは可能です。なぜなら『火の鳥』という曲が『火の鳥』という物語の音楽であり、その音楽に『火の鳥』の物語や、その音楽の使われた該当のシーンがすべて詰まっているからです。つまり音楽が表現していることを、スケーターは自分なりの解釈で二次的に表現しているのです。

わたしはこのことが「曲の解釈」だと考えています。

そう考えると、キム・ヨナ選手や浅田真央選手が点数ほどそれを自覚的に行っているかは懐疑的です。わたしは「振付/構成」の項目と違って、「曲の解釈」についてはコーチや振付師でなく、選手自身がすべきものだと考えています。なぜなら、選手自身がそれを行わないと、その演技や振りに意志が生まれないからです。

【つづく】

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