黒木工吉のフィギュアスケート解説ブログ

フリーライター黒木工吉のフィギュアスケートに関するブログです。最新の技術解説、選手の情報からフィギュアスケートというスポーツ全体まで様々な角度から論じてみます。

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浅田真央の革新⑮ 2009-2010FP『ラフマニノフ前奏曲Op3-2 鐘』 了







【前回のつづき】


そして今シーズンのFS『鐘』である。わたしは浅田真央に表情は不要と述べたが、それは浅田真央の表情づくりには、どこかしら不自然さがあったという点も否定できない。しかしそれも、全日本では気にならないそれどころか、すばらしいものになっている。そこにも凄みを感じた。

演技が始まると、あの可憐な19歳の少女が、わたしには死神のように見えた。そして、演技が終わればまた少女に戻って、ころころと笑う。浅田真央というのは、そういう不思議な、そして唯一無二の選手だ。

全日本の解説で八木沼純子さんが、「同じスパイラルでも、ショートはまた違う、非常に迫力のある表情とポジションと、良いですね」という発言をしていたが、これは浅田真央が技術でそういう迫力や凄みを表現できているということだ。

フィギュアスケートでは良く手拍子で選手の演技を後押しすることがあるが、この『鐘』では多分そういったことはできない。そういう曲ではない。フィギュアスケートの慣例に従えば、そういう面を「点数的に不利だ」という考えも出てくるだろう。実際、シーズン冒頭は、もっと演技を助けるような曲にしたほうがいいという意見も、よく聞かれた。

しかし、浅田真央というのはスケーティング、スピン、ステップ、ジャンプ、フットワーク、上半身の表現、全てにおいて、技術でそのメリハリを表現できる選手だ。

フィギュアスケートが技術的に向上していけば、このような流れになってくることは、浅田真央の『仮面舞踏会』そして『鐘』を見ると、想像することができる。つまり浅田真央は、5年後、10年後のフィギュアスケートの未来を切り開いている。

これがタラソワが浅田真央に託した野心であり、そして浅田真央はそれに対して全力で応えている。浅田真央は、演技中は「真央ちゃん」ではない。浅田真央は演技中は、音楽になっている、フィギュアスケートになっている。浅田真央というのは、本当にフィギュアスケートそのものだ、とわたしはよくおもう。世界中のファンもジャッジすらも、その価値を真に認識するのは、現在ではなく、もっと後のことになるだろう。えてして天才といいうのは時代を超越し、我々にその理想を示し続けるのだ。

【了】

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浅田真央の革新⑭ 2009-2010FP『ラフマニノフ前奏曲Op3-2 鐘』







【前回のつづき】

そもそも浅田真央は、静止することを拒否している風にも、私には見受けられる。『チャルダッシュ』や『月の光』においても、シーズン冒頭は静止してポーズで魅せる振りが少しだけあったが、シーズン終盤では、それも止めて動き続けることを選択している。これが浅田真央の感性なのかもしれない。タラソワがそうさせている部分は大きいだろうが、それも含めて、これが浅田真央なのだろう。動き続ける彼女には、わたしはなんらかの意思を感じてしまう。

動き続ける。浅田真央の凄みはここにある。それでいて、せかせかしている感じでなく、優雅な舞を見せながら、高度な技を繰り出す。ときどき、上位選手においてもフットワークと上半身の動きが忙しく、どこか急いているような印象を受けることがあるが、彼女にはそれがない。このとき、浅田真央自身が音楽であり、浅田真央自身がフィギュアスケートであると、わたしは思っている。

浅田真央は言語感覚に長けた選手ではない。そして、音楽やフィギュアスケートをことばで理解して滑っている感じでもない。ただ、彼女は音楽を自分の肉体を通して、誠実な鏡のように映しだすことに優れている。技術にメリハリがあるので、音楽や手拍子に助けてもらう必要もない。だからわたしは、彼女に表情や彼女なりの思想は現段階では不要だと思っている。

しばしばこういった表現や演技を競う競技において、「表現力というのは深い人生経験から滲み出るもので、若いうちは難しいだろう」という論調があるが、わたしはそれに対して懐疑的な視点を持っている。

確かに、人生経験から芸術作品を理解し、自らそれに倣って音楽を表現したりする能力は培われるだろう。フィギュアスケートも、そのように音楽を自分の演技に変換して、深い演技表現に繋げることが、是とされる面もあるだろう。

しかし、浅田真央のような音楽的感性、それと運動能力をもってすれば、その変換作業と同等の、もしくはそれ以上の表現が、すでにできているとわたしは考えている。浅田真央は言語を介さずに、音楽をそのまま自らの手足の動き、そしてスケーティング、そして技術でそこに表現することができる選手だ。

(つづく)

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演技構成点は芸術点か?④







【前回のつづき】

ショートプログラム
PCS バンクーバー 女子 SP

フリースケ-ティング
PCSバンクーバー 女子 FS 


その点ではわたしは安藤美姫選手が特別優れているとおもいます。SP『レクイエム』については、安藤選手の意志をとても強く感じました。「わたしにはこの曲はこう聞こえている!」という強固な叫びです。それを彼女が自らの肉体を持って表現し、その深い説得力にわたしは涙しました。

我々は同じ楽曲を他人と共有しているときに、お互い同じ音楽を聞いているということを、厳密には証明できません。我々の音楽の感じ方はひとりひとり違うものであり、聴覚の能力にも差があり、他人に聞き取れている音が自分に聞き取れていないということも充分に考えられます。その点、我々は常に孤独なのです。

そこで、すぐれた踊りというのは、我々に音楽というものを共有させる力があるとおもいます。優れた表現によって、我々に「そうそう、この曲はこういう感じだよね!」という認識を共有させ、そこからコミュニケーションが生まれます。

安藤選手の演技にはわたしはそうさせる強い力を感じます。安藤選手の滑りを見ることで、我々は『レクイエム』の世界を隣にいる誰かと、同じ安藤選手の演技をみている誰かと語りあい、お互いに同じ音楽を一緒に聞いていることがすこし証明され、孤独はいやされるでしょう。それは安藤選手の芸術的な魂がそうさせるのです。

わたしが見るに、今回のオリンピック安藤選手は特に表現に重きをおいていたように思えます。彼女の滑りにそう感じさせるような強固な意志を感じました。ストレートラインステップに入る前の天に両手を掲げるような振りがありますが、あれを以前はもうすこし茫漠とこなしていたのですが、今回はとても力づよく、直前のやわらかな祈りを振り払うような力強さで行いました。あの瞬間にわたしは背筋がゾクゾクしたのです(カメラワークの妙もあったかもしれませんが)。

つまり、「曲の解釈」というのは簡単に扱ってはいけないような要素で、演技がうまくいったからと言って安易に高い点をつけるべきでない。しかもわたしは「曲の解釈」が優れているからといってよい必ず良い演技に繋がるかと言ったら、それは違うのではないかという気がしています。

「曲の解釈」といっても、ほんとうにひとそれぞれ好みやこだわりがあります。あるピアニストの解釈が、ひとりは「ブラヴォー」といい、ひとりは「楽曲への冒涜だ」というかもしれない。そういう危険性はフィギュアスケートにだってあるのです。

それを点数化するというのは、ナンセンス中のナンセンスです。このことをもってわたしは演技構成点を作り上げた人間を芸術的魂のかけらももっていな人間だと確信をもって断じることができます。

勘違いされるかもしれないので書いておきますと、私はキム・ヨナ選手も浅田真央選手も「曲の解釈」という意味では
優れたものを持っているとおもいます。特に浅田選手は言語感覚がすこし拙いので日本人は誤解しているかもしれないですが、彼女の感性はすばらしいものだとわたしはおもいます。音楽が鳴ると、それを言語化する時間も要さず、自らの肉体で表現する。その力はすばらしい。

しかしそれを「曲の解釈」という言語にしてしまうと、高得点にはやや疑問が残ります。やはりここは、安藤美姫やジョアニー・ロシェットやカロリーナ・コストナーにその評価を譲るべきだと考えます。キム・ヨナや浅田真央は音楽に対する感性、反応が優れているのですが、それが優れた「曲の解釈」か?というと、やはりやや疑問が残ります。

だからわたしはここはいうなれば「音楽の表現」でいいとおもうのですが、やはりそうしても「振付/構成」「演技力」との棲み分けが謎になってきます。

演技構成点というのは、かように重複するものであり、そしてどこかちぐはぐな印象の否めないものであります。しかしこういった芸術的な側面というのは採点することが難しく、それがフィギュアスケートの醍醐味であり難しさでもあります。わたしはいままでこの問題について、これといった代案をだすことができませんでしたし、今もって代案はありません。故に沈黙していたのですが、やはり、どうしてもちぐはぐなのです。故に、この記事を書いて、色々な反応をいただければと考えました。

わたしはこの問題についていちファンとして、明確にこうすべきという道を示すことができずにいます。

【了】

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演技構成点は芸術点か?③







ショートプログラム
PCS バンクーバー 女子 SP

フリースケ-ティング
PCSバンクーバー 女子 FS 

【前回のつづき】

ピアニストや歌手は、曲を自分のなかで噛み砕いて、作曲家や作詞家の魂を自分のなかで消化してそれを演じる力が必要です。わたしはフィギュアスケーターもそれに近しい存在だと考えます。俗に言うシンガーソングライターではなく、歌手であるということです。

なぜなら、歌詞や曲というのはあくまでな概念であり、それを形にできる人がいなければ、そこに存在する証明ができないものです。もともと曲というのは記号であり、出版物です。紙に起こされた楽譜を出版することが作曲家の仕事のひとつであり、その時点では曲というのは紙です。故に楽曲というのは出版物です。

それを楽器や声で表現したときに、初めて我々の耳にもそれが認識されることになります
わたしはフィギュアスケートというのは、あくまで音楽を表現する競技だと考えています。

ここがわたしが一番言いたいことなのですが、フィギュアスケートは直接的に別の役柄を演じるわけではないと、わたしは考えています。音楽を通して、役柄を演じることはあるでしょうが。

例えば今回のキム・ヨナ選手の「007」では、キム・ヨナ選手はボンドガールを演じる、と言っていました。
しかしそれは音楽あってのものであり、音楽が「007」を、ひいては「ボンドガール」を表現しているから成り立つものです。故に、「スケーター→ボンドガール」ではなく、「スケーター→『007の音楽』→ボンドガール」だと考えます。「スケーター→トゥーランドット姫」ではなく「スケーター→『誰も寝てはならぬ』→トゥーランドット姫」ということです。

なぜこのことをこんなに厳密に主張しているかというと、それを自覚していることと自覚していないことでは大きな差が出るからです。

例えば高橋大輔選手はロミオとジュリエットの音楽で滑るときに、「自分はロミオを演じるのではなく、ロミオとジュリエットというの音楽を表現するのだ」という趣旨のことを言っていました。わたしはそのときに、そのことに気がつかされたのです。やはり彼は偉大な芸術家です。

もちろん、『ロミオとジュリエット』という音楽を使用してロミオ、ないしはジュリエットを演じることも、ひとつの表現です。しかしあくまで音楽を介してそれを演じていることを自覚しないと、わたしはそれは表現としては未熟なものであるとおもいます。

なぜなら、ひとつの役柄に固執してしまうと可能性が限りなく狭まるからです。もちろん、プログラムを通してひとつの役柄を演じるからと言って、表現の幅が狭まると言っているのではありません。ただ、音楽を表現することに色々な選択肢があることを認識するべきだということです。中野友加里選手は『火の鳥』を使用したプログラムで、前半は火の鳥を演じ、中盤以降はお姫様を演じている、とコメントしました。こういうことは可能です。なぜなら『火の鳥』という曲が『火の鳥』という物語の音楽であり、その音楽に『火の鳥』の物語や、その音楽の使われた該当のシーンがすべて詰まっているからです。つまり音楽が表現していることを、スケーターは自分なりの解釈で二次的に表現しているのです。

わたしはこのことが「曲の解釈」だと考えています。

そう考えると、キム・ヨナ選手や浅田真央選手が点数ほどそれを自覚的に行っているかは懐疑的です。わたしは「振付/構成」の項目と違って、「曲の解釈」についてはコーチや振付師でなく、選手自身がすべきものだと考えています。なぜなら、選手自身がそれを行わないと、その演技や振りに意志が生まれないからです。

【つづく】

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演技構成点は芸術点か?②







【前回のつづき】

ショートプログラム
PCS バンクーバー 女子 SP

フリースケ-ティング
PCSバンクーバー 女子 FS 

滑りの技術に関して言えば、キム・ヨナ選手のスケーティングは高得点は充分うなづけるものです。ひと蹴りひと蹴りの伸びが抜群ですし、とにかく軽やかにリンクを駆け抜けます。しかし、つなぎの要素となると彼女より優れた選手は他にも大勢いる気がします。とくに浅田真央選手はふつうに滑っている時間を探すのが困難なほど、足捌きが難解で濃密なプログラムになっています。しかし、ここもジャッジはキム・ヨナに軍配を上げています。

そもそもわたしはこの「滑りの技術」というのと「つなぎの要素」というのは、同じものなのではないかな?という疑問が、ややあります。例えば、もの凄いスケート技術を持った選手がいて、その選手が普通に滑る箇所が殆どなくステップやフットワークを駆使した直後にジャンプやスピンに入れるとします。それならばつなぎの要素は満点に近い点が出るでしょう。しかし、滑りの技術はどうなのでしょうか?このように突き詰めていくと、「滑りの技術」と「つなぎの要素」というのは、棲み分けが良く分からなくなってきます。どちらも詰まる所スケーティングの巧みさを表すものですし、もし滑りの技術がラン(普通にすべる状態)を、つなぎの要素が細かなステップワークやフットワークの濃密さを評価するものであるのなら(そのへんは明確な基準が明かされていなません)、この二つは相反する評価を与えることになります。わたしはこの二つは同じものではないだろうかという考えがあり、現状分けた状態で採点するのなら、滑りをたてればつなぎがたたず、つなぎをたてれば滑りがたたず、という風になるのではないか?という気がしています。

そして、最も問題がありそうなのがそのほかの項目、振付/構成、曲の解釈、演技力です。

まず演技力という項目ですが、これもなにをもって演技力といっているのかわからない。
「曲の音楽世界に入り込んで演技する力」なのか、それともフィギュアスケートのプログラム全体を「演技」として、全体を演じきる力なのか、よくわからない。

そもそも「演技力」のなかに「振付/構成」と「曲の解釈」というのは含まれるのではないか?とわたしは思います。例えば曲の解釈なしに良い演技はできないでしょういし、それは振付においてもそうです。先ほどのつなぎとスケート技術の項もそうだったのですが、この5つの要素は独立したものではく、相互に含まれたり同じものだったりするような性質のものです。だから上位選手になると全体的にヴァランスよく点が高くなってくるのかもしれませんが、だとしたら5つに分ける必要もなく、なんとなくわたしはダブルスタンダードなのではないかな?とおもってしまいます。

そして「振りつけ/構成」これはコーチや振付師の仕事です。選手がプログラムを演じきる力も関わってくるとおもいますが、それだとすると「演技力」とどう棲み分けているのかが説明できません。この辺は謎というか、浅はかさも少し感じ取れます。

そして「曲の解釈」。

わたしが今回最も論じたいのはここです。

【つづく】

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